自分大好き

憚らない

若い私からしたら夢とか希望とかそういうことが奨励されて、そして潰される世の中でしかない。多くの人はそんな夢を途中までは持っていてもどこかで諦めて大してしたくもない仕事を自分とか家族とかの生活のためにこなし続けて死んでいくわけで、こんなにも虚しいことはないしそれなら初めからそう言ってほしいと思う。どうせ能力か要領の良さしか評価されないなら私は初めから夢など見たくなかったし他人は信じてもいつか裏切るし感性を磨いても意味がないなら人生とはただ死ぬのを待つだけの忍耐でしかなくて、そんなことをこれから何十年も続けていかなくてはならないだけの人生、しかも人と関わることで人に迷惑をかける人生にプラスの要素が一つもない。

こういう歪んだ人生観に育ったからといって寛容だったり人の痛みがわかるでもなくただ私たちを捨てた父をひたすら憎むだけで人の虚栄心をこき下ろすのが好きな性格が悪くて人の気持ちを考えられない暗い怠惰な女になった。死にたい。何よりもこういうことを全てはっきりと言語化して再認識せずにいられないところに私の社会不適合なところが表れている。そこまで思っていなくてもこの過程を経ることで真実味が増してしまうのだ。親にだけは本当に申し訳ないけれど、私がこれまでやってきたことは何の価値もないことばかりで、性格を歪めるようなことばかりに精を出してきたし、自己顕示欲が強く人の関心を引こうとする幼稚なところは21年全く成長しなかった。ここまで精神的に未熟な同世代の人間もいないだろうし、私は劣等感の塊だが、絶対に父のようにはなりたくないという思いが強すぎてもはや自分を肯定することができなくなってしまった。そんな人間には理想に近づく努力はおろか社会で生きていくことすらできそうもない。最低限以下だ。能力も気力も体力もなく、人とのコミュニケーションも下手で頭も要領も性格も悪く浅慮で、管理能力はゼロ、人を信頼できず、朝は起きられず、アンテナも先を見る目もなく、人の目ばかり気にし、容姿も醜く食べ方も汚い、口も育ちも悪い、大学にも行かず、真面目に勉強することすらできない、今まで何一つしてこなかった、そのくせ人を悪く言って見下す、私はそういう人間だと本気で思ってきたしこれからもそうだと思う。この人みたいになりたいと思う人は今までたくさん見てきたけれど、今の自分があまりにも劣等すぎて、自分が強く賢く人に優しい、能力のある人間になれるなどと、とても思えるわけがないのだ。ときどき人に嫌われるけれど、私のことは誰よりも私の方が嫌いだ。父よりも大嫌いなそんな自分の将来に期待などできるはずもないし、騙し騙し生きていけるほどの器用さもない。自分の心の汚さがそろそろ本気で嫌になってきた。甘ったれなので今まではそれでも自分を許してきたけれど、もうとても無理だ。自分でも自分に付き合いきれない。めんどくさいにも程がある。めんどくさい人間ほどの害悪はない。自分が失言しても大して反省せず何度となく繰り返すくせに自己顕示欲だけは人一倍のめんどくさい人間だということは自分が一番自覚している。親にだけは本当に申し訳ないと思うしそれだけが生きる意味だと思っているけれど、私が人生を諦めるのも時間の問題だと思う。これ以上人に迷惑をかけるな。死ね。

若い私からしたら夢とか希望とかそういうことが奨励されて、そして潰される。多くの人はそんな夢を途中までは持っていてもどこかで諦めて大してしたくもない仕事を自分とか家族とかの生活のためにこなし続けて死んでいくわけで、こんなにも虚しいことはないしそれなら初めからそう言ってほしいと思う。どうせ能力か要領の良さしか評価されないなら私は初めから夢など見たくなかったし他人は信じてもいつか裏切るし感性を磨いても意味がないなら人生とはただ死ぬのを待つだけの忍耐でしかなくて、そんなことをこれから何十年も続けていかなくてはならないだけの人生、しかも人と関わることで人に迷惑をかける人生にプラスの要素が一つもない。

こういう歪んだ人生観に育ったからといって寛容だったり人の痛みがわかるでもなくただ父をひたすら憎むだけで人の虚栄心をこき下ろすのが好きな性格が悪くて人の気持ちを考えられない暗い怠惰な女になった。死にたい。何よりもこういうことを全てはっきりと言語化して再認識せずにいられないところに私の社会不適合なところが表れている。そこまで思っていなくてもこの過程を経ることで本当になってしまうのだ。親にだけは本当に申し訳ないけれど、私がこれまでやってきたことは何の価値もないことばかりで、性格を歪めるようなことばかりに精を出してきたし、自己顕示欲の強い幼稚なところは21年全く成長しなかった。ここまで精神的に未熟な同世代の人間もいないだろうし、私は劣等感の塊だが、絶対に父のようにはなりたくないという思いが強すぎてもはや自分を肯定することができなくなってしまった。そんな人間には理想に近づく努力はおろか社会で生きていくことすらできそうもない。最低限以下だ。能力も気力も体力もなく、人とのコミュニケーションも下手で頭も要領も性格も悪く浅慮で、管理能力はゼロ、人を信頼できず、朝は起きられず、アンテナも先を見る目もなく、人の目ばかり気にし、容姿も醜く食べ方も汚い、口も育ちも悪い、大学にも行かず、真面目に勉強することすらできない、今まで何一つしてこなかった、そのくせ人を悪く言って見下す、私はそういう人間だと本気で思ってきたしこれからもそうだと思う。この人みたいになりたいと思う人は今までたくさん見てきたけれど、今の自分があまりにも劣等すぎて、自分が優しく強く賢い人間になれるなどとはとても思えないのだ。ときどき人に嫌われるけれど、私のことは誰よりも私の方が嫌いだ。父よりも大嫌いなそんな自分の将来に期待などできるはずもないし、騙し騙し生きていけるほどの器用さもない。自分の心の汚さがそろそろ本気で嫌になってきた。甘ったれなので今まではそれでも自分を許してきたけれど、もうとても無理だ。自分でも自分に付き合いきれない。めんどくさいにも程がある。めんどくさい人間ほどの害悪はない。自分が失言しても大して反省せず何度となく繰り返すくせに自己顕示欲だけは人一倍のめんどくさい人間だということは自分が一番自覚している。親にだけは本当に申し訳ないと思うしそれだけが生きる意味だと思っているけれど、私が人生を諦めるのも時間の問題だと思う。これ以上人に迷惑をかけるな。死ね。

命からがらにパーティを抜け出して。そして路地裏で一人泣くような、そんな性格を変えずに、結局そんな惨めな人生を歩んでいきたい。なにが惨めって、命からがらに抜け出すことになってしまうような道を選ぶのをやめられないことが。悲しい。

自分の感性や価値観やそういうものに自分自身が抱くイメージと実際との齟齬から生まれる、疑念や不信感。つまり自分の感性が信じられないということ。

辛い。

バカバカしい。身の周りの何もかもがバカバカしく思われる。ひたすらに重く美しかった。あらゆるものは表面的で、腹立たしいほど取るに足らないことだ。だが盲目的に何かを信奉することは間違っている。

傷が癒えた。
正確にいえばまだ靴擦れの傷は完治していないのだけど、痛みは完全に消え去り、今はどの靴を履いても不自由なく歩ける。この履歴が消えるまでは、この履歴が消えてしまったら、この傷が治るまでに、この傷が治るまでは、とずっと自分に言い聞かせていた。いまその傷が治ろうとしている。いい加減もう全部が消えてしまいそうだ。きっと傷やなんかが跡形なく消えても記憶は消えないし、不毛な悩みを苦痛に思って忘れたくてもすぐには忘れられないだろう。目に見えるものが消えて考えなくなるようなら、苦しむこともなかったはずだからだ。自分に何かを強要することは、既にそれ自体が矛盾している。こうしてゴミのような文章にしてみても、感情の昂りが落ち着くまでに時間がかかるのは変わらない。自分自身の感情を自覚するための努力であり、得られるものは結局自己満足だ。相対性理論の「気になるあの娘」。何もできない自分と、自分にも他人にも都合良く期待しすぎる自分と、行動したくないだけのところを「できない」と甘ったれてしまう自分と、全部嫌になる。寒気がする。まだ小さなかさぶたが残っている。取れた日にはきっと、別の消えつつある何かを見つけるんだろうなと思う。何もかもいつかは消えるのだ。

電気グルーヴの「フラッシュバックディスコ」。ボリュームを上げて、スピーカーで流す。

両親は些細なことで喧嘩してばかりだ。一度離婚しかかってから互いのことを見下しあっていて、理解し合おうという気がまったくなくなってしまっている。二人がいっしょにいなければならないのは私のせいだと自分を責めたことももちろんあったけれど、今はそんなこともバカバカしいと思うようになった。別に私がいたところで、やりようはいくらでもあるのだ。離婚というのはきっと、結婚がいろいろな意味で個人的というよりむしろ社会的な契約である以上、簡単なことでは全くないのだ。これは私の問題ではないし、私だけのせいでもない。

喧嘩の声が大きいのが本当に迷惑だ。聞こえてくるとなぜか私までどんどん不機嫌になってしまう。どうにかして、自分の不快感を彼らに理解してほしいという感情が生まれるのを感じるのだ。こういうことを考えはじめると、普段はバカバカしいと思えるような「私のせいだ」みたいな陶酔し切った思考がどうしても頭をもたげてくる。自分がかわいそうな存在に思えてきて泣きたくなる。だが、こういう時にそんなふうに考えたくなる原因は私の中に別にあるのだ。私の自己肯定感が低いのはまさに、それが過剰に高い他人を痛々しい、気持ち悪いと思う感性の表れだ。

 

モード論集。映像学。美意識論。バルテュスゴダール

体がでかくて朴訥フェイス。明日は早起き。ドイツ語とお友達。

何をするでもなく、サンバ・トリステを聴いている。トリステというのは、ポルトガル語だかスペイン語だかわからないが、フランス語と同じなら確か「悲しみ」。悲しみのサンバ。そうか。
アイスクリームを食べる。癒しだ。小さい頃から変わらず好きなものなんてこれくらいだろう。歯に少ししみる。この甘さと冷たくて柔らかい食感が、私を許し受け入れてくれるような気がする。美味しい。炭酸と同じで、冷たさで本当の甘さが誤魔化されているのではないかと最近思うようになった。なんとなく自分と重なる。常温で溶けてしまえばただ甘ったるいだけの液体であることが露呈するから、バランスを取るために姿を偽り、常に身を守らなければならないのだ。
自分の将来を考える。子供時代に特有の感受性で一度固く決心してしまったことを、10年経った今も引きずっている。自分の食い扶持は自分で稼ぐのが筋だという矜恃のようなものも一応あるし、何より他人をそこまで信用できなくなってしまった、信用できないと思い込んでしまったことが原因なのだが、まあなんというか、結局自分が裏切られることに対する恐怖に比べたら誰にも頼らずそのために路頭に迷うことなど何ともないといわんばかりの相変わらずの自分のプライドの高さと自己愛とに目眩を覚える。
面白いことに、私はここまで自分の自己愛に厳しいくせに、やすやすと恋愛に思考を占められてしまう性質の人間だ。今回はこれが書きたかった。恋愛至上主義というわけではないけれど、誰かに恋している時はそのことばかり考えるのを抑制できていないように思う。とはいえこれまではっきりそれと言い切れる恋、もっと言えば片思いはしたことがなくて、そのくらい自分の感情も信じ切れていないというわけなのだが。そもそも恋愛感情というものもよく分からない。もし友人と恋人との差がセックスをするかしないかだけの話だとしたら、私は今まで一度として片思いをしたことはない。これがまた困ったところで、自分はこの人とセックスがしたいとはっきり思えれば、自分でもわかりやすいし諦めもつきやすそうなものだが、私が経験してきた片思いらしいものはどれもそのような感情とは違っていた。だからもしかしたらこれは自分本位な性欲とは違う、純粋な恋愛感情なのではないかと思い込んでしまうのだ。そうなったらもう救いようがない。泣けてきた。純粋な恋愛感情など存在しないのに。ましてや、私の心の中にそんなものが生まれるなんて、どう考えてもありえないことだ。これはもう、気の迷いを正当化して自分の身勝手さから目を背けようとする心の動きとしか言いようがない。
最悪なのが、今までは片思いをしているかもしれないと気づくたびに、ああ自分は恋愛などする資格もないような価値の低い人間だし、貞操観念も結婚観もメチャクチャで気づいたらスタンダードから大きく逸脱してしまっているし、一人で勝手に、それも私自身の感情に振り回される自分の恥ずかしいこと情けないこと、それに傷つくのは怖い、他人にすら受け入れられない自分をいよいよ肯定できなくなる、こんな馬鹿げたことは早く諦めてしまって、もう恋愛なんか絶対にしたくない、そんなものが必要ない人間になりたい、そう思うことだ。恋愛観が歪んだ原因のひとつがこれだ。これは毎回必ず、強く思う。悟りのひとつも開きたいくらいだ。だけど、それが無理なこともよくわかっている。私がこれからどんなに変わっても、今よりずっと能力も人間性も高い人間になれたとしても、きっと恋愛はやめられない。無駄に周りの友人にも迷惑をかけ、自分もなんだか辛い思いをしているけれど、私は恋愛に抗えないとわかっているからこそ、上記のようにわけのわからない御託をたくさん並べ立てて予防線を張りたくなってしまうのだろう。一度でいいから幸せな恋というものを経験したい。というか、どうあれ次で最後にしたい。なんて、毎度こう思うのだけど。
南米は遠すぎて、当事者意識がわいてこない。日本の音楽を聴く。スガシカオの「サヨナラ」。雨の日に聴くスガシカオは悲観的な陶酔に満ちていて最高だ。前に日本の音楽がよくわからないと言ったのはちょっと嘘だったかもしれない。嘘は上手くないし嫌いなので、なるべく吐かないようにしているのに。前の恋人と久しぶりにふたりで会った後、なぜか無意識にこの曲を聴いていた覚えがある。その日も雨だった。過去を清算というが、何がどうなったら清算されたことになるのだろうか。人のいい彼にはつい不躾な態度を取ってしまううえ、あろうことか私の恋愛相談にまで乗ってもらっている。それこそ身勝手で、申し訳なさが募るばかりだ。私にだって、恋愛がやめられたら楽になれる確信だけはあるのに。恋愛という概念さえなかったら。もう寝よう。幸せになりたい。