自分大好き

憚らない

何をするでもなく、サンバ・トリステを聴いている。トリステというのは、ポルトガル語だかスペイン語だかわからないが、フランス語と同じなら確か「悲しみ」。悲しみのサンバ。そうか。
アイスクリームを食べる。癒しだ。小さい頃から変わらず好きなものなんてこれくらいだろう。歯に少ししみる。この甘さと冷たくて柔らかい食感が、私を許し受け入れてくれるような気がする。美味しい。炭酸と同じで、冷たさで本当の甘さが誤魔化されているのではないかと最近思うようになった。なんとなく自分と重なる。常温で溶けてしまえばただ甘ったるいだけの液体であることが露呈するから、バランスを取るために姿を偽り、常に身を守らなければならないのだ。
自分の将来を考える。子供時代に特有の感受性で一度固く決心してしまったことを、10年経った今も引きずっている。自分の食い扶持は自分で稼ぐのが筋だという矜恃のようなものも一応あるし、何より他人をそこまで信用できなくなってしまった、信用できないと思い込んでしまったことが原因なのだが、まあなんというか、結局自分が裏切られることに対する恐怖に比べたら誰にも頼らずそのために路頭に迷うことなど何ともないといわんばかりの相変わらずの自分のプライドの高さと自己愛とに目眩を覚える。
面白いことに、私はここまで自分の自己愛に厳しいくせに、やすやすと恋愛に思考を占められてしまう性質の人間だ。今回はこれが書きたかった。恋愛至上主義というわけではないけれど、誰かに恋している時はそのことばかり考えるのを抑制できていないように思う。とはいえこれまではっきりそれと言い切れる恋、もっと言えば片思いはしたことがなくて、そのくらい自分の感情も信じ切れていないというわけなのだが。そもそも恋愛感情というものもよく分からない。もし友人と恋人との差がセックスをするかしないかだけの話だとしたら、私は今まで一度として片思いをしたことはない。これがまた困ったところで、自分はこの人とセックスがしたいとはっきり思えれば、自分でもわかりやすいし諦めもつきやすそうなものだが、私が経験してきた片思いらしいものはどれもそのような感情とは違っていた。だからもしかしたらこれは自分本位な性欲とは違う、純粋な恋愛感情なのではないかと思い込んでしまうのだ。そうなったらもう救いようがない。泣けてきた。純粋な恋愛感情など存在しないのに。ましてや、私の心の中にそんなものが生まれるなんて、どう考えてもありえないことだ。これはもう、気の迷いを正当化して自分の身勝手さから目を背けようとする心の動きとしか言いようがない。
最悪なのが、今までは片思いをしているかもしれないと気づくたびに、ああ自分は恋愛などする資格もないような価値の低い人間だし、貞操観念も結婚観もメチャクチャで気づいたらスタンダードから大きく逸脱してしまっているし、一人で勝手に、それも私自身の感情に振り回される自分の恥ずかしいこと情けないこと、それに傷つくのは怖い、他人にすら受け入れられない自分をいよいよ肯定できなくなる、こんな馬鹿げたことは早く諦めてしまって、もう恋愛なんか絶対にしたくない、そんなものが必要ない人間になりたい、そう思うことだ。恋愛観が歪んだ原因のひとつがこれだ。これは毎回必ず、強く思う。悟りのひとつも開きたいくらいだ。だけど、それが無理なこともよくわかっている。私がこれからどんなに変わっても、今よりずっと能力も人間性も高い人間になれたとしても、きっと恋愛はやめられない。無駄に周りの友人にも迷惑をかけ、自分もなんだか辛い思いをしているけれど、私は恋愛に抗えないとわかっているからこそ、上記のようにわけのわからない御託をたくさん並べ立てて予防線を張りたくなってしまうのだろう。一度でいいから幸せな恋というものを経験したい。というか、どうあれ次で最後にしたい。なんて、毎度こう思うのだけど。
南米は遠すぎて、当事者意識がわいてこない。日本の音楽を聴く。スガシカオの「サヨナラ」。雨の日に聴くスガシカオは悲観的な陶酔に満ちていて最高だ。前に日本の音楽がよくわからないと言ったのはちょっと嘘だったかもしれない。嘘は上手くないし嫌いなので、なるべく吐かないようにしているのに。前の恋人と久しぶりにふたりで会った後、なぜか無意識にこの曲を聴いていた覚えがある。その日も雨だった。過去を清算というが、何がどうなったら清算されたことになるのだろうか。人のいい彼にはつい不躾な態度を取ってしまううえ、あろうことか私の恋愛相談にまで乗ってもらっている。それこそ身勝手で、申し訳なさが募るばかりだ。私にだって、恋愛がやめられたら楽になれる確信だけはあるのに。恋愛という概念さえなかったら。もう寝よう。幸せになりたい。