自分大好き

憚らない

ぼくは彼女が嫌いだった。


知的ぶっているけど何も知らないお嬢さま。恵まれた環境で大切に育てられて、初めからなんでも持っている。一方で刹那的な生き方に強い憧れを抱いていて、本当は今の生活なんて全部放り出して自由に暮らせたらいいと思っている。純粋で幼稚でわがままで、そして温室育ちに特有の楽観的さも持っていて。だけどずっとそれを隠して生きていた。というより、それまでの彼女の人生においてそんなことは問題にならなかったのかもしれない。彼女は他人との関わり方が下手だった。プライドが高く、強がるけれど傷つくことを人一倍怖がって、それで人に優しくするような、小さい人間だった。話も上手くなかった。彼女はなによりそんな自分がいちばん嫌いだった。自分に期待することには嫌気がさしているけれど、だからといって死ぬには臆病すぎた。そんなことだから、自分自身のために必死に努力するぼくを、今思えば彼女はどこか蔑んでいたのかもしれない。ぼくはといえば、それこそびっくりするくらい彼女に惹かれていた。燻らせた複雑な感情、そしてぼくが持っていないものを初めから全部持っていたこと、そのくせ努力してきましたというような顔をして、だけど中身は空っぽだったこと。それがぼくにとってはどうしようもなく魅力的だった。空っぽの彼女が、自分と重なって見えたのかもしれない。ぼくは今も自分が嫌いだ。


年が明け、最近は変わりたいという気持ちにやっと少しずつ行動が追いつきつつあると思う。映画もそこそこ観ているし、すこし海外にも行くし、働き口も新しいのを探せてはいる。ただ同時に自分の人間的な未熟さや幼稚さ、醜さ、心の狭さ、などそういったものが自分の中で浮き彫りになり、それを周囲に知られる(あるいは既に知られている)ことに強い苦痛を感じてもいる。承認欲求を燻らせる人間にとって、自分を承認してくれない相手にそのような欠陥であるとか空虚であるとかを見透かされ指摘されることは致命傷になってしまうのだ。他人についてあれこれ思うことは怖い。ましてや恋愛なんて裸で崖の上から海を望んでいるようなものだ。懲りない人類め、私は子孫なんか1ミリだって残したくないのに。これは甘えだろうな。とにかくあんなものはどうあっても絶対に死ぬ。もう死にたい。

インスタントラーメンを食す。個人的には鍋を出さなくてはならないというだけでかなり面倒くさい。ゆで卵を剥く。上手く剥くコツは、何度聞いても忘れてしまう。冷蔵庫のチャーシューは20日近くも賞味期限が過ぎていたので、仕方なく3枚全部載せた。賞味期限切れのものを食べることにはやや抵抗があるが、なにごとも難癖を付けて選り好みしていられないという自戒の意味で食べたら妙な味がした。もともとこういう味なのかもしれないが。美味しくない。私はどうやらひとりでものを食べるのが好きらしい。食べ方に品がなく育ちが知れるという恐怖と戦い続ける必要があるので、他人と食事をすることは実は私にとって結構ハードルの高いことなのだ。一人は心が落ち着くし、思う存分考え事に耽ることができるから。自意識にがんじがらめになっていた期間が長過ぎて、未だあまり長時間他人と一緒にいることが得意ではない。これを楽しめるほど自信が持てれば楽しそうなのだが。先刻までYMOを聴きながら予備知識もない美学の問題に悪戦苦闘していたが、これから今度はろくに読んでもいない外国の文学について論じなくてはいけない。なんだっていつも学校というのはこんなことを学生にさせるのか。すべて悪いのは私だ。虚しい。

夜10時、長かった午睡から目覚め、自分の時間の使い方に絶望。そろそろ猿どものおセックスのピークかと思うと、抑えきれず深いため息。何が恋愛だ。辛い。自分の気持ちが許さず眠れないのでスパンクハッピーを聴きながら課題を進める。進まない。方針が定まらない。「COMPUTER HOUSE OF MODE」を2周も聴き終えてしまう。3、6、10が好き。課題は行き詰まる。ピチカートファイヴを聴きながら、朝のままだったメイクを落として、林檎を切る。あと数日放置すれば腐ってしまうところだった。冷蔵庫から異臭がし始めている。久しぶりなのに、意外とうまく剥ける。時間は掛かる。剥いているあいだは「悲しい歌」、剥き終えたら「ベイビィ・ポータブル・ロック」。なんとなく恋人を思い出す。考えてみれば若い私に何かを躊躇する理由などない。ものごとを長引かせずに早く終わらせることは、時として良策かもしれない。食べ終わる。午前4時。外はまだ暗い。今は「モナムール東京」。自分は酔うだけだったら、どんなにか楽だろう。眠い。

初っ端から自分でもどうかと思うけれど、私は男性一般に対してあまり好ましい印象を抱けていない。どこかで女性を下に見ているのではないか、とどうしても勘ぐろうとしてしまうのだ。

一つには私がインターネットにばかり居ることがある。今のように匿名掲示板にもSNSにも人々の本音がこれでもかと溢れる時代には、心の底で恐ろしいことを考える人間が一定数存在することが嫌でもわかってしまう。それを日頃から目にしていれば、そのうちなんとなく他人を信じられなくなり、ますますインターネットに浸かってしまうようになるのは当然の帰結ともいえるのではないか。

私自身は男権主義者もフェミニストもあまり好きではない。どうしても意味がわからないからだ。たとえその意見や主張がどんなに筋の通ったものであっても、感情が混じってしまえばもはや感情論と大差ないように思えるのだ。主張が過激であればあるほど、コンプレックスに根付いた恨み言を一般論として語ることによる正当化に見えてしまう。そもそも過激な主張とは現状への個人的な不満から生まれるものであり、努力ではどうにもならないのでそれを一般化して主張することで自分を守り、他人の共感を得ることでさらに自尊心を満たすということまでを目的として為されるのではないだろうか。モテないとか。めんどくさいので終わる。